すぐに記事をアップしたかったのですが、合気道の歴史が思った以上に
諸説がいっぱいあったので、まとめるのに時間がかかっちゃいました(^-^;)
結論から言って、
「ちゃんとした記録(文献)がなく、ホントのことは良く分からない」
みたいですね~
ただ、諸説をまとめあげると、大筋は同じことを言ってるみたいです。
今回はネットを散策しまくった結果を僕なりにまとめさせていただきました。
(今回は力作です♪)
その前にランキングをまとめましょうか?(笑)
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■合気道の歴史について
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<平安時代(8世紀~12世紀)>
清和天皇(せいわてんのう)の時代、清和源氏の間で代々伝えたれている秘伝の武道
がありました。
これが「大東流合気柔術」と言われています。
通説では皇族を守るために、当時のボディガードが覚えた武道だったと言われています。
<同じく平安時代(11世紀~12世紀)>
「大東流合気柔術」が源義光に継承される。
源義光はさらに、
・賊兵の死体を解剖して、その骨格から逆極め手の技や、当て身・殺法の術
・女郎グモが巣の上で獲物を雁字がらめにする手練の技
を研究し、「大東流合気柔術」を進化させていきます。
その集大成が一族の間で極秘裏に伝承されていきます。
<明治時代(19世紀~20世紀)>
時は一気に飛んで明治維新後、源義光の子孫でもある武田惣角という天才武術家
がおりました。
武田惣角は身長150cmと言う小柄ながら、剣術・杖術・棒術・槍術など各流派を体得し
「会津の小天狗」と呼ばれていたそうです。
明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた保科頼母(元会津藩家老・西郷頼母)
より「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、大東流合気柔術の修行
をしたといわれています。
武田惣角は全国で大東流合気柔術を広め、後々「大東流合気柔術・中興の祖」と
称されるようになります。
<大正時代(20世紀)>
大正4年(1915年)武田惣角は北海道 遠軽町(えんがるちょう)で一人の武術家と
出会います。
その武術家こそが植芝盛平(当時31歳)でした。
ちなみに、この時植芝盛平は北海道開拓団体の一員として伐木作業をしていました。
豪力と言われていた植芝 盛平も、武田惣角の前ではまったく歯が立ちませんでした。
やがて植芝盛平は武田惣角に弟子入りし、大東流合気柔術を学びます。
<昭和時代(20世紀)>
1948年(昭和23年)、植芝盛平(当時65歳)は戦争や家族の死を乗り越えて、
初めて「合気道」名乗った。
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ちなみに、合気道の歴史について紹介している動画もありましたので紹介します。
・「サンプル05 歴史」(by youtube)
以上が合気道の歴史(超ザックリ)について調べた結果です。
多分もっと詳細に知っている方も多いと思いますが、僕ではこれが精一杯ですね(苦笑)
それにしても1000年以上の歴史があったのには僕も驚きました(笑)
合気道を始めて3年になりますが・・・
こりゃまだまだペーペーですわ(*・ω・)(。。*)ぅん